第2章 電子書籍、とくにiPadの登場と読書文化
●電子書籍の登場と紙書籍の「本」の相対化
また、歴史上いまほど紙書籍の「本」について考えるのに適した時期はない、と僕は考えています。それは、電子書籍の登場によってはじめて「本」が比較対象を得て、相対化されたからです。今まで当たり前だったものが、当り前でなくなる。間違いなく、「本」は今、空前絶後の大画期を迎えていると思います。そんな今だからこそ「本」について見直さなければならない。
では、紙書籍である「本」と電子書籍との一番大きな違いは何か?当然ですが、両者の違いは紙書籍の「本」というカタチを持つかどうかに集約されます。そしてこの有形か無形かの違いが、紙書籍と電子書籍を似て非なるものにしています。(以後、「本」は紙書籍、本は紙書籍と電子書籍の両方を指します。)
よく「本は、紙書籍だろうが電子書籍だろうが読めればいい。」という意見を耳にします。ある意味でこれは真っ当な意見だと思います。間違いなく、本の最大の価値はその中身・コンテンツにあるからです。
しかし、本の価値というのは中身・コンテンツ「だけ」にあるのでしょうか?僕はそうは思いません。本が「本」であることにもちゃんと意味があると思っています。
●本が「本」であることの意味
本が「本」であることの意味について考えるためには、本が「本」でなくなるとどうなるのかについて考えると分かりやすいです。本がカタチを失うと、それに伴って様々な物が失われていきます。
●本棚
身近なところから言えば、まず本棚がなくなってしまいます。内田樹さんも『街場のメディア論』のなかで言及しておられますが、よく考えてみると、本棚というのは僕たちの読書習慣に対してとても大きな影響力を持っています。
例えば、本棚には「読み終えた本」を並べることができます。自分がこれまでに読んできた本というのは、ある意味で「自分の足跡」でもあると思います。自分は今までどんなことに興味を持ち、どんなことを経験し、どんな感情を抱いてきたのか。本棚に並べられた本のタイトルに目を通すだけで、自分が概ねどういう人であるかがわかったりします。また、本棚には「これから自分が読もうと思っている本」を並べることもできます。そしてそれは、「これから自分がどうなりたいのか」というその人の「指針」を反映するものでもあります。(それに、読み終えていない本が本棚に並んでいるというのは何となくうしろめたい気分になりますから、この心理的圧迫感が読書を促すという側面もあります。)
要するに、本棚は「自分を映す鏡」でもあるわけです。自分のかわりに、自分を物語ってくれる。しかも、自分の死後も、本棚はその人の「人となり」を教えてくれます。一つの財産として本棚が扱われることが多いのはこのためです。
さらに、本棚は読書習慣の文化的再生産にも寄与しています。すなわち、読書習慣を親から子供へ、または祖父母から孫へと継承するのに一役買っているということです。家に本棚があることで何となく本が気になり、何気なく手に取って読んでみたらこれがまぁなんとも面白い。そして本の世界に引き込まれていく。このような本との出会いを本棚は提供してくれます。幼い時代のこのような本との出会いが読書家や作家になるキッカケになったというのはよく聞く話でもあると思います。
しかし、電子書籍の場合、本棚はあくまでデータベース上にしか存在しません。つまり、本棚が目に見えないところへ追いやられてしまう。これは本棚が果たしてきた様々な役割を奪うことになります。それに、文化的再生産の影響もほぼなくなってしまうと言っていいでしょう。なぜなら、データベース上の本棚に手を伸ばすためにはPCを操作できるようになることが大前提になるからです。幼い時から何気なくPCを立ち上げアプリを起動することが出来る人はそういないと思います。
●「本」を介してのコミュニケーション
また、電子書籍は旧来の「読書文化」自体をその根幹からを大きく揺るがすことになると僕は危惧しています。
電子書籍が一般化すれば本屋や図書館はオンライン化されるでしょうし、構造上古本という概念がなくなり、古本屋や古書店などは姿を消してしまうことになります。これは、これまで存在していた「本」にまつわる様々な空間が失われることを意味しています。もちろん完全になくなることはないでしょうが、少なくとも減るのは間違いない。
加えて、著作権上の問題から、おそらく電子書籍の貸し借りや寄贈は原則禁止されることになります。(これを許してしまったら、電子書籍ビジネス自体が崩壊しかねなくなります。)
この「本にまつわる空間の喪失」と「貸し借りや寄贈の禁止」は、本を介しての人と人とのコミュニケーションを減少させることに他なりません。そして、それはそのまま「読書文化」の衰退に直結すると僕は考えています。
もちろん、電子書籍が新しい形のコミュニケーションを作り出す可能性は大いにあります。例えばTwitterと連動して、読書をしながらその内容について議論をするとか。(これは僕のフォロワーに教えてもらったアイディアです。) しかし、電子書籍が生みだすことが出来るコミュニケーション量は、「本」を介すことで生まれるコミュニケーション量よりも圧倒的に少なくなるのは目に見えています。それは単純に本に関わる人の数が減ることもありますし、貸し借りや寄贈といった行為によって生まれていたコミュニケーションが、電子書籍においては事実上なくなってしまうからです。
「読書文化」というのは、読み手と書き手の関係性だけで成り立つものでは決してないと僕は思っています。出版社で働く人たちや書店の店員さん、本を流通させている人たち、印刷会社の人たち、あるいは図書館の司書さんたち。これら本に携わる全ての人びとのコミュニケーション、本を取り巻く全ての環境の中で「読書文化」というのは育まれていくものなのではないでしょうか。
このような本を介したコミュニケーションを減少させてしまうという点で、「本にまつわる空間の喪失」や「貸し借り・寄贈の禁止」を伴う電子書籍は(少なくとも既存の)「読書文化」にとって脅威となり得る存在だと思います。何の留意もせず、無暗矢鱈に電子書籍化を推し進めてしまえば、「読書文化」を振興するどころか逆に大きく損なう危険性が非常に高いといえるのではないでしょうか。
●「本の価値の低下」という錯覚
そして最後に。これは本が「本」であることの意味というよりは、むしろ電子書籍化されることによって生じると予測される弊害ですが、電子書籍は、まるで本というものの価値が低下したかのような“錯覚”を引き起こさせると思われます。
理由は簡単です。電子書籍化によって本の価格が下がり、また本を手軽に入手できるようになるからです。
それが正しいかどうかは別として、価格というのはモノの価値を推し量る上で最も分かりやすい指標であるのは間違いありません。したがって、「値段が下がる」といった現象は直感的に「そのモノの価値が下がった」かのような印象を与かねません。 もちろん、電子書籍化による本の低価格化は流通コスト・印刷代等が大幅にカットされることで生じる現象であり、本の価値が下がったわけでは決してありませんが、低価格化の原因にまでしっかりと思考を巡らせる人はそう多くはないと思いますので、「本の価値が下がった」と見誤られる危険性は高いといえるでしょう。
また、本が「いつでもどこでもすぐ手軽に手に入る」というのは、裏を返せば「いつでもどこでもすぐ本を手軽に処分できる」ということも意味します。人間、簡単に手に入れられるものは大事にしない性質がありますから(当たり前のことですが、一応心理学的にも実証されているようです)、本を一つの情報源としてしか見なさなくなり、本というものが消費の対象として一層軽視されることになりかねません。
そして当然のことながら、本にたいする評価が下がるというのは、読書文化・出版文化の衰退につながっていきます。今日においてなお多くの人が自らの意見・主張を発表する場として「本」を選んでいるのは、「本」に対する畏敬の念があるからに他なりません。本に対する評価が下がり書き手が本を選らばなくなってしまえば、出版文化は根源的に衰退することになり、それに伴って読書文化も傾いていってしまうことになるでしょう。
●読書文化をどう守るか
「本」が長年にわたって培ってきた本に対する信頼や尊敬を、電子書籍は引き継ぐことが出来るのか。これは今後の出版文化・読書文化にとても重要な問題です。個人的には、電子書籍だけで本の価値・評価を維持・向上させるのは厳しいのではないかと思っています。やはり、紙書籍か電子書籍かに関わらずより広い視野で本の素晴らしさを伝えていかなければ厳しいのではないかでしょうか。
2010.12.04 ワタナベヤマト