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一橋大学内で古本のリユースを中心とした事業を行っているサークルです。現在図書館内で古本を無償で提供しています。
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第2部 ケツポケットに文庫を
 
第1章 解決策
 
●新刊の購買促進

「好きな作家の新作をすぐ読むことが出来る」という新刊ならではの最大の魅力が衰退しているのは、新刊の購買数が伸び悩んでいる点から見ても明らかです。そのような状況において「コンテンツが同じで、それなりに新しい作品も揃えてあって、しかも価格がやすい」となれば、大方の人が古本やBookoffの方を選ぶのは当然と言えば当然のことです。
 
しかし、前述した通り、やはり新刊は売れてもらわなければ困る。出版業界自体が縮小してしまっては、日本の読書文化は免れない。では、新刊が生き残っていくためにはどうすればいいのか。それは、古本・新古本とどう差異化していくのかが最大の焦点になると思います。
 
コンテンツを変えることは無理。再販制がある限り、価格を下げることも出来ない。じゃあ、どうするのか。残る道は一つ。そう、デザインです。
 
もちろん、これまでにも趣向を凝らした様々なデザインが出されてきました。(新潮文庫なんて特にそうです。)しかし、それらはあくまで「本としてのデザイン」であったので、コンセプトとしてそこまで大きな変化はなかったと思います。(でも僕は新潮文庫のデザインが好きです!) 

これをまったく新しい観点、つまり「ファッションアイテムとしての本」というコンセプトのもと、デザインを考え直したらどうなるか。きっと、既存の文庫本とはハッキリと違う、新しいものになると思います。そうすれば、古本ではなく新刊を買う理由にもなし、新刊を選ぶ意味も出来る。
 
また、これから電子書籍が登場してくる中で、所有物としての本の価値(本が「本」であることの意味)というのは、ますます高まってくると予想されます。つまり、「本をもっていることがカッコイイ」といった記号消費的な価値をいかに創造していけるかがポイントになってくるでしょう。そのなかの一つとして、「ファッションアイテムとしての本」があってもいいのではないでしょうか?


 
●読書離れイメージの払拭

現況では、「新刊離れ」が起きていることは明らかであっても「読書離れ」がおきていると言いきることは出来ないことは第1部でも触れました。むしろ問題なのは、このような現状であるのにも関わらず、さも明確な事実であるかのように「読書離れ」というイメージが蔓延していることの方だと思います。これはゆゆしき問題です。「読書離れ」イメージはさらなる「読書離れ」を助長します。「みんな読んでいないんだったら、僕も読まなくていいか。」と考えさせてしまう。
 
 しかし、どうして「読書離れ」イメージはいつまでたっても蔓延ったままなのでしょうか。それは、読書をしていることが傍目から分からないからだと僕は思います。例えば、電車の中がそうです。電車などで本を読んでいれば、その人が読書をする人であることは一目瞭然です。しかし、如何せん電車の中ではみな自分の世界に入ってしまっていて(携帯・読書など)周りのことなんて気にも留めませんし、電車を降りてしまえばその人が本を読んでいたことは分からなくなってしまいます。だから、読書をしている人がまわりに意外といるということにみんな気がつかない。(今度電車に乗ったら周りを見渡してみてください。結構みんな読書していると思います。電車の中というのは、図書館・喫茶店に次いで本との親和性が高い空間だと僕は思っています。)
 
これが逆だったらどうでしょう。もし、読書をしていることが傍目からわかったら。本を読んでいる時以外でも、その人が読書をしていることがわかったら。
 
まず、間違いなく「読書離れ」イメージは払拭されます。そして、「本を読んだ方がいい」という雰囲気を作り出すことが出来るはずです。「みんなが本を読んでいるなら、私も本を読もう」。言葉で薦めなくても、教育で強制しなくても、授業で縛りつけなくても、みんな自分から本を読むようになる。そう思います。
 
そこで「ケツポケットに文庫を」なんです。たとえ本を開いていないときでも、ケツポケットから顔を出した文庫本からその人が本を読むことが傍目に分かる。読書中でなくとも読書習慣が顕在化する。これは面白い効果を生むはずです。社会心理学でいうところの「同調圧力」です。「みんながやっているなら、自分もやった方がいい。やってみよう。」そのような雰囲気を醸成することができるはずです。
 
普段バッグに入れていた本を、ケツポケットに入れるだけで世界が変わるかもしれない。大袈裟ですが、僕は本気でそう信じています。


 
●本のすばらしさ

紙書籍・電子書籍の議論の前に、本自体の素晴らしさを再確認し広めることが出来なければ、読書文化は衰退してしまう危険性があることは前述したとおりです。
 
では、本の素晴らしさを伝えるにはどうすればいいのか?人に教えられるのでもなく、強制されるのでもなく、本の素晴らしさに気がつくためには自発的に本を読まなければならない。そう考えました。
  
では、自発的に本を読んでもらうためにはどうすればいいか?少なくとも本が手にとれる範囲になければならない。つまり、本を読むから本がそばにあるのではなく、本がそばにあるから本を読むことが出来る。いわば逆転的発想です。
 
 だから「ケツポケットに文庫を」なんです。文庫本はポケットに収まるサイズであるし、幸いにも大方のパンツにはケツポケットが二つ付いていて、片方は使われていないことが多い。そして入れて見たら案外カッコイイ。
 
携帯電話も音楽プレイヤーも「ポケッタブル」であったことが普及の最大要因であったのではないでしょうか?だから「ポータブル」ではなく「ポケッタブル」。バッグではなくポケット。携帯電話や音楽プレイヤーと戦うためには、本も同じフィールドに立つより他にありません。


 
●本が「本」であることの意味を見直す

そして最後に、本が「本」であることの意味です。これについてみなさんに考えてもらうためにはどうしたらいいか。
 
これもまた上述した通り、本が「本」であることの意味は「本」というカタチを持っているから生じているものでありますから、「本」というカタチに焦点を当てた企画にするべきだと考えました。実際に手に取り項を繰ることで感じられることは多いと思います。

 

●まとめ

以上の話をまとめると以下の様になります。
  
①新刊の購買促進
  →
新刊と古本・新古本をデザインで差異化

②「読書離れ」イメージの打破
  →読書習慣の顕在化

③電子・紙に関わらず、本の素晴らしさを広める・再確認する
  →本がそばにある環境を創出

④本が「本」であることの意味を見つめ直す
  →「本」というカタチにフォーカス

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2010.12.04 ワタナベヤマト
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第3章 まとめ・解決すべき問題点
 
以上の議論をまとめますと、解決すべき問題点は以下の4点に集約することが出来るかと思います。

  
①新刊の購買促進


②「読書離れ」イメージの打破


③電子・紙に関わらず、本の素晴らしさを広める・再確認する


④本が「本」であることの意味を見つめ直す


次回第2部ではこれらの問題点の解決策として「ケツポケットに文庫を」を提案したいと思います。


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2010.12.04 ワタナベヤマト

第2章 電子書籍、とくにiPadの登場と読書文化

●電子書籍の登場と紙書籍の「本」の相対化

また、歴史上いまほど紙書籍の「本」について考えるのに適した時期はない、と僕は考えています。それは、電子書籍の登場によってはじめて「本」が比較対象を得て、相対化されたからです。今まで当たり前だったものが、当り前でなくなる。間違いなく、「本」は今、空前絶後の大画期を迎えていると思います。そんな今だからこそ「本」について見直さなければならない。
 
では、紙書籍である「本」と電子書籍との一番大きな違いは何か?当然ですが、両者の違いは紙書籍の「本」というカタチを持つかどうかに集約されます。そしてこの有形か無形かの違いが、紙書籍と電子書籍を似て非なるものにしています。(以後、「本」は紙書籍、本は紙書籍と電子書籍の両方を指します。)
 
よく「本は、紙書籍だろうが電子書籍だろうが読めればいい。」という意見を耳にします。ある意味でこれは真っ当な意見だと思います。間違いなく、本の最大の価値はその中身・コンテンツにあるからです。
 
しかし、本の価値というのは中身・コンテンツ「だけ」にあるのでしょうか?僕はそうは思いません。本が「本」であることにもちゃんと意味があると思っています。
 

 ●本が「本」であることの意味

本が「本」であることの意味について考えるためには、本が「本」でなくなるとどうなるのかについて考えると分かりやすいです。本がカタチを失うと、それに伴って様々な物が失われていきます。


 ●本棚

 身近なところから言えば、まず本棚がなくなってしまいます。内田樹さんも『街場のメディア論』のなかで言及しておられますが、よく考えてみると、本棚というのは僕たちの読書習慣に対してとても大きな影響力を持っています。
 
 例えば、本棚には「読み終えた本」を並べることができます。自分がこれまでに読んできた本というのは、ある意味で「自分の足跡」でもあると思います。自分は今までどんなことに興味を持ち、どんなことを経験し、どんな感情を抱いてきたのか。本棚に並べられた本のタイトルに目を通すだけで、自分が概ねどういう人であるかがわかったりします。また、本棚には「これから自分が読もうと思っている本」を並べることもできます。そしてそれは、「これから自分がどうなりたいのか」というその人の「指針」を反映するものでもあります。(それに、読み終えていない本が本棚に並んでいるというのは何となくうしろめたい気分になりますから、この心理的圧迫感が読書を促すという側面もあります。)
  
要するに、本棚は「自分を映す鏡」でもあるわけです。自分のかわりに、自分を物語ってくれる。しかも、自分の死後も、本棚はその人の「人となり」を教えてくれます。一つの財産として本棚が扱われることが多いのはこのためです。
  
さらに、本棚は読書習慣の文化的再生産にも寄与しています。すなわち、読書習慣を親から子供へ、または祖父母から孫へと継承するのに一役買っているということです。家に本棚があることで何となく本が気になり、何気なく手に取って読んでみたらこれがまぁなんとも面白い。そして本の世界に引き込まれていく。このような本との出会いを本棚は提供してくれます。幼い時代のこのような本との出会いが読書家や作家になるキッカケになったというのはよく聞く話でもあると思います。
 
 しかし、電子書籍の場合、本棚はあくまでデータベース上にしか存在しません。つまり、本棚が目に見えないところへ追いやられてしまう。これは本棚が果たしてきた様々な役割を奪うことになります。それに、文化的再生産の影響もほぼなくなってしまうと言っていいでしょう。なぜなら、データベース上の本棚に手を伸ばすためにはPCを操作できるようになることが大前提になるからです。幼い時から何気なくPCを立ち上げアプリを起動することが出来る人はそういないと思います。


 
●「本」を介してのコミュニケーション

 また、電子書籍は旧来の「読書文化」自体をその根幹からを大きく揺るがすことになると僕は危惧しています。
  
電子書籍が一般化すれば本屋や図書館はオンライン化されるでしょうし、構造上古本という概念がなくなり、古本屋や古書店などは姿を消してしまうことになります。これは、これまで存在していた「本」にまつわる様々な空間が失われることを意味しています。もちろん完全になくなることはないでしょうが、少なくとも減るのは間違いない。
 
 加えて、著作権上の問題から、おそらく電子書籍の貸し借りや寄贈は原則禁止されることになります。(これを許してしまったら、電子書籍ビジネス自体が崩壊しかねなくなります。)
 
 この「本にまつわる空間の喪失」「貸し借りや寄贈の禁止」は、本を介しての人と人とのコミュニケーションを減少させることに他なりません。そして、それはそのまま「読書文化」の衰退に直結すると僕は考えています。
 
 もちろん、電子書籍が新しい形のコミュニケーションを作り出す可能性は大いにあります。例えばTwitterと連動して、読書をしながらその内容について議論をするとか。(これは僕のフォロワーに教えてもらったアイディアです。) しかし、電子書籍が生みだすことが出来るコミュニケーション量は、「本」を介すことで生まれるコミュニケーション量よりも圧倒的に少なくなるのは目に見えています。それは単純に本に関わる人の数が減ることもありますし、貸し借りや寄贈といった行為によって生まれていたコミュニケーションが、電子書籍においては事実上なくなってしまうからです。
 
 「読書文化」というのは、読み手と書き手の関係性だけで成り立つものでは決してないと僕は思っています。出版社で働く人たちや書店の店員さん、本を流通させている人たち、印刷会社の人たち、あるいは図書館の司書さんたち。これら本に携わる全ての人びとのコミュニケーション、本を取り巻く全ての環境の中で「読書文化」というのは育まれていくものなのではないでしょうか。
 
 このような本を介したコミュニケーションを減少させてしまうという点で、「本にまつわる空間の喪失」や「貸し借り・寄贈の禁止」を伴う電子書籍は(少なくとも既存の)「読書文化」にとって脅威となり得る存在だと思います。何の留意もせず、無暗矢鱈に電子書籍化を推し進めてしまえば、「読書文化」を振興するどころか逆に大きく損なう危険性が非常に高いといえるのではないでしょうか。


 
 ●「本の価値の低下」という錯覚

 そして最後に。これは本が「本」であることの意味というよりは、むしろ電子書籍化されることによって生じると予測される弊害ですが、電子書籍は、まるで本というものの価値が低下したかのような“錯覚”を引き起こさせると思われます。
 
 理由は簡単です。電子書籍化によって本の価格が下がり、また本を手軽に入手できるようになるからです。
 
それが正しいかどうかは別として、価格というのはモノの価値を推し量る上で最も分かりやすい指標であるのは間違いありません。したがって、「値段が下がる」といった現象は直感的に「そのモノの価値が下がった」かのような印象を与かねません。 もちろん、電子書籍化による本の低価格化は流通コスト・印刷代等が大幅にカットされることで生じる現象であり、本の価値が下がったわけでは決してありませんが、低価格化の原因にまでしっかりと思考を巡らせる人はそう多くはないと思いますので、「本の価値が下がった」と見誤られる危険性は高いといえるでしょう。
  
また、本が「いつでもどこでもすぐ手軽に手に入る」というのは、裏を返せば「いつでもどこでもすぐ本を手軽に処分できる」ということも意味します。人間、簡単に手に入れられるものは大事にしない性質がありますから(当たり前のことですが、一応心理学的にも実証されているようです)、本を一つの情報源としてしか見なさなくなり、本というものが消費の対象として一層軽視されることになりかねません。
 
 そして当然のことながら、本にたいする評価が下がるというのは、読書文化・出版文化の衰退につながっていきます。今日においてなお多くの人が自らの意見・主張を発表する場として「本」を選んでいるのは、「本」に対する畏敬の念があるからに他なりません。本に対する評価が下がり書き手が本を選らばなくなってしまえば、出版文化は根源的に衰退することになり、それに伴って読書文化も傾いていってしまうことになるでしょう。


 
●読書文化をどう守るか

 「本」が長年にわたって培ってきた本に対する信頼や尊敬を、電子書籍は引き継ぐことが出来るのか。これは今後の出版文化・読書文化にとても重要な問題です。個人的には、電子書籍だけで本の価値・評価を維持・向上させるのは厳しいのではないかと思っています。やはり、紙書籍か電子書籍かに関わらずより広い視野で本の素晴らしさを伝えていかなければ厳しいのではないかでしょうか。

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2010.12.04 ワタナベヤマト
 
第1部 本を取り巻く現状の分析


第2章 電子書籍、とくにiPadの登場と読書文化

 
●電子書籍のデメリット
 
ここ最近の傾向として、「電子書籍は紙書籍・出版文化を滅ぼすか?」といった観点から「電子書籍問題」については語られることが多いように感じます。正直、僕はこの傾向にとても違和感を覚えています。電子書籍の競合は紙書籍なのでしょうか?僕はそうではないと考えます。電子書籍も一つの本であると考えれば、むしろ競合はテレビやインターネットやゲームではないでしょうか?
 
 でもまぁ、兎にも角にも電子書籍の登場が紙書籍と既存の出版業界に大きな影響を与えることはもちろん言うまでもありません。
  
電子書籍化による書籍の価格の低下や無形化は本の「感覚的な価値」の低下を 引き起こすでしょうし、読書という行為自体も「PCを操作する」という動作に包摂されることによって価値下がることが推測されます。(つまり、「ネットをする」「メールを打つ」「ゲームをする」「映像をみる」といったPCで行えるさまざまな行為と「読書」が並置されるようになれば、これは読書という行為が持つある種の威厳であったり畏敬の念のようなものを喪失させてしまうことになり、結果的に読書という行為自体の価値の低下を招くことになる、ということです。)
 
 読書というのは、映像を見たり音楽を聞いたりするのに比べて労力が必要とされる行為です。したがって、読書という行為自体になにがしかの価値(たとえば「読書は知的だ」とか「読書はかっこいい」とか)がなければ、「読書」という行為をわざわざ選択する人は減ってしまうと思われます。その意味で、「読書」という行為自体の価値は保たれなければならないものであり、「傍目に本を読んでいるのがわかる」というのはとても重要であると思われます。



●電子書籍のメリット

 一方で、電子書籍にもさまざまなメリットがあります。原理的には絶版がなくなりますし、読者からすれば安い価格すぐに読みたい本を手に入れることができます。それに何冊購入しても重さも大きさも変わらないですし、検索だって容易です。「本棚を持ち歩ける」という風に考えれば、これはとても便利です。さらに、セルフパブリッシングも容易になるため、書き手にも門戸が広がります。(「プロとアマの境界をいかに保つか」というのもまた重要な問題ではありますが…)。
 
 また、電子書籍の登場は「委託制」や「本のニセ金化」によって発生した「出版洪水」に歯止めをかけ、流通構造モデル自体を大幅に改良・再構築するきっかけにもなり得るかもしれません。(長江朗さん 『本の現場 本はどこで生まれ、誰に読まれるか』参照)
 
 要するに、一長一短だということです。棲み分けが大事だということでしょう。
 


 
●iPadの登場と読書人口の減少

それよりも問題なのは、「電子書籍の登場は読書人口の減少につながる可能性がある」ということです。「あれ、逆じゃないの?」と思った方。確かに一時的・短期的には読書人口は増えるかもしれません。電子書籍によって安く簡単に本を手に入れることができるようになりますから。しかし、長期的にみればまったく逆のこと、つまり読書人口が減少するのではないかと僕は危惧しています。 
まず単純に考えて、kindleやリブリエといった「純粋に電子書籍に特化したデバイス」を購入するのは、ほとんどが「もともと本が好きな人たち」(以後「読書人」)であると考えられます。「もともと本が好きではない人たち」(以後「非読書人」)はiPadに代表されるような汎用性の高いタブレット型PCを購入するでしょう。単純に考えて、読書以外にもいろいろ出来たほうが便利ですから。読書人にもこのタイプのデバイスを利用する人はかなり多いはずです。
 
 要するに、純粋な電子書籍リーダーを買うのは「読書人」だけで、「読書人」「非読書人」を含む多くの人たちはiPadのような汎用性の高いデバイスを買うだろうと推測することが出来ます。(一応データもあります。西田宗千佳さん『iPad vs キンドル』参照)
 
 「実はこれ、とても危険な状況なのでは…」と僕は懸念しています。なぜなら、iPadで読書が出来るとは思えないからです。ネットも使えてメールも出来て、映像を楽しんだり音楽を聞いたり、さらにはゲームだって出来てしまう。しかも何をしていても傍目には「iPadを使っている」としか見られない。そんな状況で、読書を選びますか?読書習慣がある方ならまだしも、そうでない方には厳しいと思います。
 
 つまり、本を読むというのは読書に特化したデバイス(紙書籍・電子書籍リーダーなど)でなければ難しい行為だということです。しかし、上述した通り、一般に普及するのはiPadの様な汎用性の高いデバイスのはずです。そうなれば、「非読書人」はもちろんのこと「読書人」までもが本から離れていってしまうことが懸念されます。
 
 「電子書籍の登場によって新たな読書人口の増加が見込める!」と期待している人もいるようですが、ハッキリ言って僕にはそれが希望的観測のような気がしてなりません。たとえ増加したとしても一時的だろうし、電子書籍の購買数が上がったとしてもちゃんと読んだかどうかは定かではないと思います。簡単に手に入れられるものはぞんざいに扱ってしまうのではないでしょうか。
 
 長くなりましたが、要するに電子書籍はまだしも、iPadの登場は人びとの読書習慣を脅かしかねないというのが僕の主張です。しかし、今後iPadのようなタブレット型PCが普及する
のはほぼ間違いありません。そのような中で、いかに人びとの読書習慣を維持することが出来るのか。今この問題に取り組まなければ、手遅れになってしまう気がします。
 
「電子書籍か紙書籍化か」といった内輪での争いの前に、本自体のもつ素晴らしさを広め、読書人人口を増やすような働きかけをしなければ、本や読書はますます肩身の狭いものになってしまうのではないでしょうか。


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2010.12.04 ワタナベヤマト

第1部 本を取り巻く現状の分析

 
第1章 出版業界の縮小と「読書離れ」
 
●そもそも出版業界は縮小し、読書文化は衰退しているのか?

 これを検証するには様々な指標があるみたいですが、残念ながらどの指標をもとにしても出版業界の縮小は疑いようのない事実のようです。永江朗さん『本の現場 本はどう生まれ、だれに読まれているか』によると、新刊は「89年から04年の15年で、点数は倍になり、一点当たりの実売部数は半減した」そうです。つまり、新刊の発行部数は2倍に伸びているのに、新刊の売り上げは変わっていない。いわゆる「出版洪水」です。これによって、出版業界は圧迫され、その規模は縮小しつつある。これが現状のようです。
 
しかし、ここ10年20年で僕らを取り囲む情報環境は著しいほどに様変わりし、PC・携帯・音楽プレイヤー・ゲーム機などなど、様々なものが本の競合として立ち現われて来たことを考えれば、多少の縮小ならある意味では当然です。要するに、「昔に比べて縮小しただけ」かもしれない。だから、悲観的になりすぎるのは良くないと思います。



●「読書離れ」は本当か

では、次に「読書離れ」についてです。これにも本当に様々な観点・指標があります。読書量や読んでいる本の質の問題、図書館で借りられた本の数や小学生・中学生・高校生の読書冊数、などなどなど。指標によっては「読書離れ」が起きていると考えられるものもありますし、逆に「読書離れ」が起きていないと見てとれるものもあります。観点や指標によって評価が大きく分かれてしまいます。
 
そもそも、情報環境の変化や余暇時間の増減などを考えれば単純に「読書離れが進んでいる」と言い切ってしまうことは出来ませんし、逆に「読書離れなどしておらんわ!」とはねつけることも出来ないません。
 
つまり、「読書離れ」が起きているとは言い切れない状況であるということです。


 
●「読書離れ」ではなく「新刊離れ」

このようななかで一つだけ確かなことは、少なくとも新刊離れは確実に進んでいるということです。つまり、「読書離れ」というよりは「新刊離れ」の方が正しい。僕はそう思います。実際、Bookoffの売り上げはここ数年右肩上がりですし(ゲームやCDのことを考えると、単純に比較はできないのかもしれませんが…)、新刊ではなく古本を読むようになったという方が適切な見方なのではないでしょうか。


 
●「読書離れ」イメージの蔓延

しかし、このような状況であるにもかかわらず、さも明確な事実であるかのように「読書離れ」という「イメージ」は蔓延している
 
これはゆゆしき問題です。なぜなら、「読書離れ」イメージはさらなる「読書離れ」を助長しますから。「みんな読んでいないんだったら、僕も読まなくていいか。」と考えてしまうのが人間です。この「読書離れ」イメージは百害あって一利なしです。いち早く取り除かなければなりません。


 
●新刊は売れてもらわなければ困る

一方で、「新刊離れ」も放置してはおけない問題です。当然のことですが、新刊の購買減少はそのまま出版業界の縮小に直結します。そして出版業界の縮小は読書文化の衰退にもつながりかねません。


 
●解決すべきは「読書離れ」イメージと「新刊離れ」

つまり、「読書離れ」イメージを払拭すると同時に「新刊離れ」も解消しなければならないということです。本を取り巻く現状を回復するためには、この二つをともに解決するような新しいアプローチが必要不可欠です。


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2010.12.04 ワタナベヤマト